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by Haruki Miyoshi


2005年4号 連載

近代主義者には困ったものだ 
〜 領土問題と老人介護と〜

 「三好さんがよく批判する“近代”ってなんなの?」 高口光子さんからの質問である。彼女のよいところの一つは、こうした率直さだ。なにしろ東京大学の上野千鶴子の研究室で「“ ジェンダー”って何ですか」と聞いて、秘書にあきれられたという。
ま、私たちが知らないのは不思議でもなんでもないが、東大なんかでは信じられないことらしいよ、読者の皆さん。 

近代とは、私たち現代人がすっぽりはまってしまっている感じ方や考え方のパターンの一つだと言えばいいだろう。いつも吸っている空気を意識しないように、当たり前だと思っている感じ方や考え方が、実は歴史的には百数十年前からの近代という時代の特殊なものでしかない。それを、人類史上ずっと続いている「老い」や「死」にあてはめようとするのは無理だよ、というのが私の近代批判である。

◇◆◇  

国家とか国民とかいう概念も近代的なものにすぎない。にもかかわらず、世界中を国家の領土に分割してしまわねばならない、と考えているのも近代的思考でしかない。 
竹島( 独島) を“ 日本固有の領土”などと言っているが、“固有の領土”なんてものはありはしない。それはせいぜい百数十年前に近代国家が成立した時に宣言したというだけのものだ。

早い者勝ちなら、近代国家への道を目指さなかった地域は植民地化されるよりない。 中東やアフリカの国境線を見てみるがいい。直線である。早く近代国家となった国々が、民族も言語も無視して領土分割したからで、そのことがいまだにイラクの混乱をつくっていると言ってもいい。 

“ 固有の領土”というならもっと歴史をさかのぼってみれば、北海道はアイヌのものだし、アメリカも原住民のものだ。もっとさかのぼれば、竹島は鳥のものである。あとは竹島を漁場にしてきた日韓の漁民の生活の場である。そのことさえ保証されれば、どの国家にも所属しないのが一番いい。尖閣諸島(釣魚島)も鳥のものだ。資源があるなら両国で話し合えばいい。

◇◆◇  

いわば国家というのはヤクザ集団のようなもので、領土紛争はヤクザの縄張り争いだ。縄張りの中で生活しているからといってヤクザと自分を同一化することはない。
“固有の領土”などと言って日本領土であることを疑うことすらしない日本のマスコミは、近代という狭い思考に閉じ込められているのだ。 

ついでに言うと、日本のはるか南の沈みゆく岩にセメントをぶち込んで、無理矢理に、領土にしてしまおうなんていうのはみっともないだけじゃなくて、最悪の環境破壊ではないか。誰もこれを問題にしないのはなぜだ。ナショナリズムを疑うことすらしないマスコミは、大衆を戦争に動員した戦前の体質と本質的に変わってはいないのだ。 

さらについでに言うと、私は日本の国連常任理事国入りなんてアホらしいと思っている。ヤクザ会の幹部になるのがそんなにいいことかね。ヤクザに課題があるとするなら、ヤクザらしくなくなることである。つまり国家の課題は国家であることを自己否定することだ。
だいたい、日本が常任理事国になっても、アメリカ票が2票になるだけじゃないか。何の意味がある? だから中国が反対するのもわかる。しかし、報道の自由も政党政治もない国が常任理事国だというのはもっとおかしいんだけどね。

◇◆◇  

“ 自立した個人” こそ価値があるのであり、それを目指さねばならない、というのも近代的思考である。そんなものが可能なのは、近代の恩恵を受けている階層の人で、しかも、若くて元気であるという条件がついている場合だけである。 

子ども、病人、老人、障害者は、“自立した個人”には含まれない。近代の側はそれを見ないようにするか、矯正の対象にして、 “自立した個人”に近づけようとした。 筋肉トレーニングもその一つである。本誌4月号に「パワーリハビリの功罪」というレポートが載っている。このレポートが優れているのは、近代的思考の枠を出たところからなされていることだ。 

私自身も筋力増強訓練の報告を私の処女作である『老人の生活ケア』(医学書院刊)でしている。そこには筋力増強の効果があったケースが出てくるが、それがその人の生活にとって意味があるためには、どんな条件が必要かについて語っている。20 年も前の私は間違っていないなあ、と思って読み返した。 

老人施設を全室個室にして、どんな老人にも個室を強制するのも、また近代的価値観を至上のものとして老人をそれにあてはめるものである。 「自分が入りたい老人ホームを」なんていう自己中心性がこれをつくり出した。若くて元気で近代の恩恵を受けられている“近代的個人”としての自分を標準にすることに疑いすらもっていないのだ。 

数日でもいいから、痴呆の老人を最後までケアしようとする施設で働いてみるがいい。自分たちが考えてきた「人間」像がいかに特殊なものだったかを痛感するだろう。
「自分が入りたい老人ホーム」ではなくて「いちばん深く呆けても落ち着いていられる老人ホーム」をつくらねばならないのだ。

◇◆◇  

参考文献を2冊。近代国家がいかにでっちあげられたものにすぎないかを論じたのが『想像の共同体』( ベネディクト・アンダーソン著、NTT 出版刊)、近代個人主義と国家主義がじつはセットであると論じる『死産される日本語・日本人』(酒井直樹著、新曜社)。
いずれも目からウロコである。

月刊ブリコラージュ 2005年5月号 

 



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