生活習慣は自分との関係、つまり自分の心と身体を大切にする行為、または特定の人物との関係、つまりご家族や恋人であるとか固有名詞が明らかになっている人、大切な人を大切にする行為。それから不特定な人物との関係で、職場とか学校とかの社会的交流を大切にする行為。それぞれが生活習慣です。
職員が涙をためて、疲れ果てて、私のところにやってきます。「もう私だめです。辞めます」。私は「まずあなたの心と身体を大切にしなさいよ」と言います。「え、いいんですか?」とその疲れ切った職員が聞き返します。「いいさ。自分の心と身体を大切にできない人が、なんで人様を大切にできる?」と私は言います。「その次にあなたのご家族やお友だちを大切にしなさいよ」と言うと、「いいんですか?」とまた聞いてきます。「いいよ。そして仕事を大切にしなさい」と言うと、フ〜ッと肩の力が抜けていきます。
この3つのバランスがとれている状況が生活習慣が安定しているという状態で、このとき人は仕事を辞めたりしません。このバランスが1つくずれただけなら何とかなります。しかし、2つ重なると厳しい。3つだとアウトです。
最初に心と身体、うつ病とかぎっくり腰が出ますね。介護職は夜勤もしますし、勤務中の動きも激しい。心や身体を痛めるという理由が1つ。
それから就職したときには想定できなかった家族条件が変わるということがあります。旦那がこんなに頼りにならないとは思わなかった、子どもが病気がちだとか、家計が不安定になるなどの理由が2つめ。そして、3つめが職場の人間関係がうまくいかないなどなど。
この3つのバランスに沿って一つひとつ解決することができるか?
たとえば、しばらく休んだらどうか?
ご家族も一緒に一度話し合ってみようか?
常勤からパートに変わってみたらどうかなど、そういう配慮で解決できます。ただし、気づくのが遅くて、3つが同時に崩れると、もうにっちもさっちもいかないということになります。
この3つのバランスのなかで一番取り替えやすいのが「不特定の人との関係(仕事)」です。自分の心と身体はそう簡単には変えられない。旦那や子どももそう変えられない。そうすると職場を変えるのが一番手っ取り早いかなという判断になるわけです。女性の多い職場ですから、結婚、妊娠、出産もあるでしょう。反対の順序の人もいますが。
この図はじつは、現場にいる職員たちにはとてもわかりやすいのです。私たちのサービス提供がこの図そのものだからです。自分の心と身体を大切にすることを主目的にサービス提供するのが病院、不特定の人間関係が施設、特定の人間関係が在宅です。因みに、本来は在宅(家庭)にあった特定の人間関係をあらかじめ要求される事業がグループホームでありユニットケアです。この成り
立ちに注意が必要です。特定の「この人」のために私財を投げ打ち、家族を巻き込んで事業展開していくという、たとえば民間デイなどであれば、「特定の人間関係」というニーズはあらかじめ満たされます。
ところが、たとえば介護保険にのっとって始められたグループホームでは、先に「特定の人間関係ありき」というわけではありませんから、この要求に職員は辟易してしまいます。共に生きる、寄り添うケア、私のおじいちゃん、私のおばあちゃん、などと、あらかじめ想定されるこれらのサービス提供に職員が疲弊するという現象が、最近見られるようになってきています。
■■■■ 私たちの仕事の基本は何だ?
病院、施設、在宅、医療、保健福祉、あらゆる分野にいる看護、介護、リハビリ、ソーシャルワーク、栄養・調理の職員たちの共通の目標は何でしょうか。リーダーはすぐに答えます。QOLの向上です。何でケアプランを作成しているの? QOLの向上です。何のためにカンファレンスしているの? QOLの向上です。何でお風呂に入れているの? QOLの向上です。便利な言葉です。QOLとは何か?
生活の質と訳されています。なんだか意味不明な日本語ですね。私自身は日ごろから、「QOL」を連発して、すべてを説明しようとする人は少しまゆつばものだと思っています。皆さんも気をつけたほうがいいです。もう少し現場らしい言葉でいきましょう、となると「その人らしい生活」です。
「その人らしい生活」を手づくりして、守り抜くのが私たちの仕事だということです。「その人らしい生活」はどう構成されているのか? ベースにあるのは当たり前の生活です。
当たり前の生活とは何か? 夜寝るということ。朝目が覚めるということ。今日はどこに行こうか、誰に会おうかと身づくろいすること。お腹をすかせてご飯を食べること。おしっこ、うんこをしたいと思うときにすること。顎までお湯に浸かって、ああやれやれ、気持ちいいな、さっぱりしたと言うこと。そして、「ああ寝るのが一番」と言って床に入ること…。これが当たり前の生活です。
医療、保健福祉であろうと、病院、施設、在宅であろうと、看護、介護、リハビリ、栄養・調理、ソーシャルワーカー、あらゆる職種の仕事の目標は、患者、地域住民、利用者など、さまざまな名称で呼ばれる目の前の人物に、まずは当たり前の生活をきちんとつくることです。これが私たちの仕事の基本です。
そして、それぞれにその人の特徴が出てくるわ けです。その人ならではの生活習慣、こだわり、です。私は朝目が覚めたらすぐ歯を磨きたい。いや、私は朝ごはんを食べてから歯を磨きたい。お風呂にはタオルをつけて、耳の後ろをこすりたい。いや湯船にタオルをつけるなんて絶対に嫌だ、というふうにその人ならではの生活習慣やこだわりがあります。
■■■■ 生活のしにくさにアプローチする介護
これらのことを総称して「その人らしい生活」となるわけですが、この「その人らしい生活」を脅かすものが機能障害、いわゆる疾患または障害です。目が見えない、耳が聞こえない、手足が動かない、息子の顔がわからない、おしっこがわからないというものです。この機能障害が「その人らしい生活」を脅かしていきます。それならこの機能障害がなければいいではないかという考えがあります。これが「医療モデル」です。
なくしてしまおう、という立場ですから、目標は治癒・回復、そして方法論はキュア、方法は処置、訓練または治療です。生活モデルの方法論はケアです。そして方法は支援、援助、介助。
「医療モデル」における重要な仕事は、治せる病気はしっかり治すということです。医学の進歩に伴って、昔だったら死んでいた人が生きられるようになりました。それはすばらしいことなのですが、生きるほうに引き上げられた私はこんな自分でどう生きていけばいいのかということに向き合わなければならなくなったのです。
治らない機能障害をもって生きていく人たちにとって、治らない機能障害がその人らしい生活に受け入れられたとき、それは個性になっていきます。ここで重要なことは、あらかじめ機能障害が“個性である”というのではなくて、“個性になっていく”ということです。
機能障害が個性になっていくプロセスにおいて、その機能障害が本人を苦しめる時期があります。それが生きにくさ、生活のしにくさで、これが生活障害ということです。日本で一番有名な身体障害者、というのも申し訳ないのですが、乙武洋匡さんという人がいます。
両手両足欠損。かなり重篤な障害をおもちです。しかし今の彼に向かって、手が生える薬を飲まないか、足が伸びる手術をしないかと言う人はいないでしょう。彼の身体の障害といわれるものは、今彼の個性となり、その活動ぶりは人に感動さえ呼び起こしています。機能障害が個性になっていく。そのプロセスに触れたとき人は感動を覚えます。それをエピソードと呼びます。その生きにくさ、生活のしにくさを問いかけるということが私たちの仕事になります。
目が見えない、耳が聞こえない、手足が動かないというように、人が年をとったらふつうに起こりうること、または、誰でも生きていれば障害をもつことは起こりうること、そういうことの何があなたをそんなに苦しめているの? それを私に教えてというのが生活の場のアセスメントの基本姿勢です。
「治癒・回復」は耳ざわりのよい言葉ではあるけれども、治らない病気や治らない障害をおもちの方に、そのことだけを望むのは、今のままのあなたでは駄目だということを繰り返しメッセージすることです。私たちの立場はそうではありません。
目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が動かなくても、あなたがあなたであることが大切、そのことを私たちはとても大切に思っているのだ。これが介護の基本的なスタンスなのです。つまり、生活障害にアプローチすることが私たちの仕事の方向性です。これを生活モデルといいます。
■■■■ 何があなたをそんなに苦しめているの?
それを私に教えて
「何がそんなに悔しいの?」「足が動かんからだ」と、ばあちゃんが言いました。「足が動かないと、どうして悔しいの?」「桜が咲いても一度も外に出て見られんだった。つつじも見られんだった。この調子じゃもう紫陽花も無理じゃろう」。足が動かないから、季節を味わえないから悔しいと言ってばあちゃんは泣きました。
それを聞いた職員が「車いすある?」と聞きます。そんなものはない。じゃケアマネジャーさんに言って調達してもらおう。社協から借りよう。ただ車いすをもってきただけでは駄目です。その人の体型や障害にあった車いすを用意する、ベッドから車いすへ乗り移りできるように高さを調整する、手すりをつける、玄関前をスロープにして段差が解消できるように工夫をする…。そんな物的環境の整備が必要になります。
どんなに立派な車いすを準備したとしても、押す人がいなければ意味がありません。その押す人に望まれるのは知識、技術、人間観です。車いすを準備してもブレーキ操作などの知識・技術がなければ車いすの操作はできません。
そして人間観です。人間を何だと思っているのだということです。一日中家の中にいたら本当に病人になっちゃうさ、桜を見なくちゃね、人間だものと思うか、年寄りのくせにごそごそしないで、怪我したらどうするの、家の中にいなさいと思うかです。そこが人的環境として問われてきます。
そして、関係性。立派な物的環境を準備して、確かな知識や技術をおもちで豊かな人間観があっても否定的な関係なのか、受容的な関係なのかということがここで問われます。
たとえば、ショートステイです。“あのじいさんがまた来るってよ。肺炎になったんだって。だから長くかかったみたい…あのじいさんさえいなけりゃ、今日の夜勤は安泰なのにねぇ”で始まるショートなのか、“あのじいちゃんが戻ってくるよ。肺炎だったんだって。もう会えないかと思ったけど、今晩また会えるねえ”で始まるショートなのか、同じショートでも全然違うということです。これが生活障害の構成内容です。介護職はここに関与するのです。
■■■■ 医療職のコンプレックスと罪
トンチンカンな人はこう言います。「生活モデルが介護職、医療モデルが看護でしょ。もっといえば、生活モデルが介護だとかソーシャルワーカーたち。医療モデルがナースとか医師とかリハビリあたりでしょ」。違います。
生活モデルにおける看護、介護、医師、リハビリ、ソーシャルワーク、栄養・調理の動きがあります。医療モデルにおける医師、看護、介護、リハビリ、ソーシャルワーク、栄養・調理の動きがあります。そのことをリーダーがきちんと具体的に組み立てて指示を出すことができないと、現場は混乱します。そのあおりが看護、介護のけんかというかたちであらわれます。こういうところに介護職はいません。
生活モデルの場においては、治せない病気がいっぱいあります。当然です。しかし、そのことが看護職や医療職には不安な気がするようです。治せない医療を背景に置いて、自分の居場所を見い出せない医療職が根拠もなく威張るのです。病気を治せない医療職の焦りや居場所のなさのとばっちりを受ける介護職。このときも介護職は嫌になってきます。
医療モデルと生活モデルの切り替えができない医療職は、生活障害でさえ原因と結果で説明できると思っているのです。だからチームワークは関係ないのです。原因が明らかになって、訓練、処置が施されると結果が出ると思っています。介護福祉士が国家資格であることは十分ご存知です。
ご存知だけれども従来の管理体制の概念を越えきれない。ですから医師とナースの世界以外は受け入れられない。このような方が生活支援施設のリーダーになると大変なことになります。職員は丁稚以外の何者でもないです。
それでも働いているうちに、この施設は治療じゃなくて、生活なのかなとボンヤリ考えてくれるようになりますが、今度はコンプレックスがあるわけです。医療モデルは一流で、生活モデルは二流だというわけです。
自分のしている仕事をつまらない、くだらないと思って、そのイライラを現場に持ち込んでしまう。介護職はわけがわからないです。一流・二流の根拠もわからないし、なんでナースがそんなにイライラするのかもわからない。医療職のこの屈折したコンプレックスに接したとき、介護職は辞めたくなります。
■■■■ ターミナルケアをしない施設は腐る
0歳から20歳まで機能向上して、その後下降して80〜90歳でお亡くなりになる。この当たり前の人間発達を支えきろうということが生活モデルの
重要な仕事になります。
昨日今日出会った人の命を見とどけるところが病院のすごさです。施設や在宅支援の現場は、昨日今日出会った人の命を支えることはできません。しかし、訪問・通所・短期・施設入所などのサービス提供で培われた人間関係のなかで逝かせてやりたい。このニーズに応えられるのが、生活モデルにおけるターミナルケアです。
立派な医療機材も、立派な専門職もいいけれど、どこにいても命の長さが同じなら、生活のなかで培った人間関係のなかで大切な人を逝かせてやりたいというこの本人・家族の希望に応えることは、ある日突然にはできないのです。
ターミナルをしない施設、サービスは腐ります。ターミナルを経験しない介護職は伸びません。人が死ぬということを知らずして、なぜ生きるということを支えられるかということです。お年寄りは身体を張って“人は死ぬのだ。だから生きることは大切なのだ”ということを今の若い者たちに教えてくれるのです。
お年寄りが伝えようとするこの大事なメッセージ・場面が、業務の組み立て、指針のとらえ方をとり間違えることで台無しにされているという現実があります。
ある施設でのことです。失語症のおじいさんが車いすでカウンターまでやってきました。カウンターの前で、指を2本一生懸命動かします。誰が見てもタバコなのです。しかし、若い介護職は「ちゃんと口で言って」と言います。おじいさんは不自由な言葉で一生懸命「タバコ、タバコ」と言いました。タバコだけでは許してくれないのです。「“タ・バ・コ・く・だ・さ・い”と言いなさい」というのです。
カンファレンスで失語症の人には自発語の誘導が必要だという話になったらしいのです。70、80、90歳にもなったおじいさんが、若造から「タバコください」と言えとカウンターの向こうから言われるのです。おじいさんは、一生懸命「タバコください」と言います。「タバコね。今日は3本出ているからもう駄目」。
たたいてやろうかと思いました。このじいさんが明日死んだらどうするんだ、おまえ一生悔いが残るぞと言うのですが、彼には全然ピンとこないのです。若い介護職たちに平気でそういう仕事をさせる、人の死を知らない生活支援施設はいつまでたっても二流だということです。
個人においては生活モデルと医療モデルの統合性が求められているのです。まさにここに看護と介護の連携が求められているということです。お年寄りが亡くなったとき、若い介護職たちはしゃがみ込んで泣きます。先輩のナースが泣き崩れる介護職の背中をさすりながら言います。
「悲しいね、悔しいね。人は自分が生きていたことを老いて、病んで、肉体が朽ち果てることで忘れ去られることがとてもつらくて、寂しいのだよ。私たちにとってとても大切なことは、あなたを忘れないということなんだよ。あなたがあのおじいさんにしてさしあげたかったことを、明日出会うお年寄り一人ひとりにお返しすることが、そのおじいさんの最も深いニーズに、あなた自身が応えたことになるのだよ」。
このターミナルケアを共に過したところから、お互いのすごさを納得し合った本当の看護と介護の連携ができあがるのです。そのための場面設定をお年寄りがしてくれているのに、自分の能力不足が原因でせっかくの機会を捨ててしまう。こういうところでは介護職はいずれ何のために仕事をしているのかわからないと言って辞めていくでしょう。
■■■■ リーダーの役割
医療モデル、生活モデルの方法論提示とかその統合性とかいったことはリーダーの仕事です。リーダーがいないところでは、まず介護職はいつかないということになります。
医療モデルにおけるサービス提供の形態と、生 活モデルにおけるサービス提供の形態は違うのです。医療モデルでは、主体性とか個性の尊重などと言ってられない。
血まみれで救急車で運ばれてくる人が対象だったりするわけですから、あなたの主体性と個性を大事にして、輸血にしますか?
何にしますか、などと言っていたら死んでしまいますからね。医療に対する基本的信頼をベースにして、主体性を委託してサービスを受けることになります。
生活モデルはそうではありません。生活モデルでは、生活者、主体であるお年寄りが介護職を振り回します。私たちは振り回されてなんぼの仕事だと腹をくくります。
お部屋に迎えにいきます。「飯はいらん」と言われます。「どうして?」「いらん、いらん!」「部屋にもっていくよ」「いらん!」何であんなに怒っているのだろうと介護職は思います。しばらくすると、「誰もわしを飯に連れて行かん!!」と先のじいさんが怒り始めます。どうすればいいの、このじいさん…。
家の前がすごい急な坂なんだって。階段の幅も狭くて、すっごい太っているんだって。お金に執着があって、はんぱ呆けで、ものを投げるんだって、大声出すんだって、家族もイライラしていてね、どうする? …受けましょう。
つまり、医療モデルと生活モデルの専門性の違いをここで明らかに強調できるリーダーがいないと駄目なのです。私たちはお年寄りから選ばれることはあっても、お年寄りを選んではならないのです。困った人を見捨てて、何のための私たちの事業所なのということです。困った人を見捨てない、ここから一歩も譲らない、それが生活支援の場における専門性だということです。
「決してこの人を見捨てない」と言えるリーダーがいるかどうか。ここを譲ってしまうと、介護職たちは何のために仕事をしているのかわからなくなり、フラフラし始めます。
■■■■ うんこを一緒に喜べるか?
おばあさんが重たい口を開いて、「本当はオムツは嫌だ」と言いました。それを聞いた介護職ははりきって、ポータブルトイレを準備したり、トイレ誘導のタイミングを考えました。
うまくいくはずだった“排泄の自立”が、下剤で下痢便、ベッドベトベト。ずり落ち転倒、家族カンカン。気がつけば、そのおばあさんに「ごめんな…」なんて言わせてしまってる。「協力するよ」と言ってくれた他の介護職も「無理なんじゃない?」と言い出す始末。
こんなことなら、もうやめちゃおうかなと思ってたときに、そのばあちゃんが、「ちょ、ちょ、ちょ」と呼びます。「どうした? ばあちゃん」と言うと、「見てみ」とポータブルトイレを指差します。そこにはとぐろを巻いたうんこがありました。
もうやめちゃおうかなと思ったそのときに、ばあちゃんがうんこをしてくれた。そんじょそこらのうんことは違う、黄金のうんこです。すぐ詰め所にもって行きます。「見て、見て! ばあちゃんのうんこだよ!」
それを受けた職員が「あんた、3日、4日もうんこしてなかったら、これくらい出るわよ。汚いわね、こんなものを詰め所までもってきて」と言ったときに、その職員の心のなかをヒューと風が吹くわけです。人のうんこを見て喜んでいる私って、おかしいのかしらと思うわけです。
職員はお年寄りと心が通わないということで介護職を辞めようとは思いません。むしろそれは課題になるからです。しかし、一緒に働く仲間と共に喜び合えなかったり、共感ができなかったときに、ふと辞めてしまおうかなと思うのです。
ここで先輩がきちんと言わなければいけない。人のうんこを見てうれしいということは、その人が生きていてくれてうれしいということだよ。傾眠レベルのばあちゃんの肩を揺らして「ばあちゃん、ばあちゃん」と呼んで、やっと口が開いて一
口食べてくれた。
その一口が一日の必要消費エネルギーに何の意味があるのだなんてことを介護職は言わないです。一口食べてくれたということは、その人が生きていこうとするその思いに触れることができたようで介護職たちはうれしいのです。
このよき体験が、よき関係をつくっていきます。このダイナミクスが理解できないところ、つまり、栄養補給と汚物の除去と人体洗浄だけで介護現場はまかなわれているのだと思われているところでは介護職たちは仕事を続けられません。
その人のうんこがうれしい、その人の一口がうれしい、お風呂上りに一緒にさっぱりしたと思えるということは、そのお年寄りにとって“私の”食事、排泄、入浴があるということです。目が見えなくても、耳が聞こえなくても、手足が動かなくても、ここには私の食事、排泄、入浴がある。私には生きていく方法があるということです。
■■■■ 存在不安に応えられる介護職という仕事
夜中に目を覚ましたお年寄りはろくなことを考えません。ここにいてもいいのかな? 私はどこに行こうとしているのだろう? 自分のことを嫌だと思っているだろうな、死んだほうがましかな…なんてことばかり考えています。
これはお年寄りや身体の不自由な人だけが考えることかというと、決してそうではないのです。2〜3歳くらいの自我が芽生え始めた子どもが母親にする質問があります。
「私はこの家の子? お母さんの子?」お母さんが言います。「あんたは橋の下のバナナ籠に入っていたんだよ」。子どもは「この家の子じゃないんだ」といって泣きだします。そうすると、母親が「うそだよ。おまえは母ちゃんの子だよ。この家の宝の子だよ」と言って、ぎゅっと抱きしめてくれます。
人はこれを一生繰り返すのです。自我が芽生え、自己の存在に気づいたときからもちあわせる存在不安を最も親しい、近しい人に問い合わせながら人は生きていくのです。
老いることや身体が不自由になることは時に悲しみではあるかもしれません。しかし真なる不幸は、老いて、病んでもなお、私はここにいてもいいの? ということを問いかける人さえいないことです。
私たちの仕事は、たとえ言語や意識の障害があっても、食事・排泄・入浴の方法をもって、言葉や意識を超えて、あなたはひとりではないということをお伝えすることです。
■■■■ お年寄りと介護職のよき関係づくりのために
組織ができること
生活支援の場で最も重要な職種は看護職や介護職たちです。なぜなら直接お年寄りに接し、最も近しい関係をもっているからです。ということは、お年寄りと最も近しい関係をもてなければ、この職種は意味がないということになります。
このお年寄りと、直接処遇者と呼ばれる看護職や介護職たちがより近づき、より豊かな関係性をもつために組織・管理体制は組まれていきます。そのために上司がいるのであり、そのために専門職の知識、技術が生かされていくのです。
このことが理解されていないところでは、介護職たちは単なる作業人です。風呂入れ作業人、飯食わせ人、汚物除去要員でしかない。これでは辞めるでしょう。
どのような全体像を職場の上司がもっているかということが重要なのです。
毎日繰り返される食事、排泄、入浴の視点整理、よき関係の紡ぎとしての意味づけ、これらのことが今日の現場で今このときに、あなた方自身のな
かにあるのだということがきちんとフィードバックできているかどうか。だからあなたが大切なのだ。あなた方は数や量ではないということを職員に伝えているかどうかです。
一年間を振り返って思い出す日はほんの数日です。そのよみがえる日の周りには思い出されもしない普通の日々が無数にあります。思い出されもしない普通の日々を職員とお年寄りが紡いでいくのです。そのたおやかな日常をつくり上げた者同士だけが迎えられるかけがえのない日、これをつくりだすことを仕事にしないで何を仕事にするのかということです。
よく管理者の皆さんは、お前たちのやりたいことを言いなさい、したいことをやっていいのだと言います。それで、介護職からお年寄りと一緒に桜を見に行きたい。パチンコをしたい。一緒にお泊りをしたいなどいろいろな企画が出てきます。ここをつぶしたらもう駄目です。
日頃、やりたいことをやりなさいと言っておきながら、この人と一緒に何かをしたいという介護職の素朴な思いを取り潰してしまう。そうなると職員は何のための食事、排泄、入浴なのかわからなくなります。現場における介護の意味、人が人を支えるという仕事の展開、これが読み取れない現場では介護職たちは辞めていくでしょう。
■■■■ アホな経営者のいるところもアカン
そしてもう一つ、経営者がアホなところは駄目だと思います。トップに求められるものは、人間性、専門性、それから社会性です。人柄のよさとか、もともと職業としているところの知識・技術の高さとか、経営者としてのバランス感覚、この3つを全部兼ね備えている人はいないと私は思いました。こんなトップは100年待っても来ません。
優れた経営者はいない。だったら今この与えられた条件のなかで、自分にできることを精一杯やってみようではないかと思う人がいるかいないか、それが現場を決めていきます。
■■■■ あなたの辞めどき、がんばりどき
「介護職はなぜ辞めるか」というテーマをいただいて、今私が話したことは皆知っていることです。
職員が自分や家族を大切にできて、医療モデルから生活モデルに切り替えて、専門職たちの横行を抑えて、きちんと看・介護の意味づけをするリーダーシップを育んで、そして優れた経営者とはいわない、普通の経営者でいいから当たり前に経営をしている、これさえ実現できれば何ら問題はないはずなのです。
しかし、今これだけ介護職たちが辞めていく状況を見ていると、じつは組織は辞めさせたいと思っているのではないかと思うくらいです。
介護職は若くて、かわいくて、よく気のつく子がよいと言う理事長がいました。なるほど、対人援助の現場だから、心細かくお年寄りに接することができる子がいいのだなと思ったら、違いました。そういう子のほうが結婚して、さっさと辞めていくからというのです。
そうすると、どんどん人が入れ替わって、給料が安くてすむからだというのです。「介護職はなぜ辞めていくか」という テーマではなくて、「よい介護職はどうして居つかないのか」というほうがテーマとしては正しかったのではないかと思ってしまいます。
介護職の条件は決してよくありません。それを承知でこの世界に入ったのならば、本当に自分がやりたいことをやり通してみようという気持ちが続く限りは、やり通していってもいいかもしれない。
今日私が話したことを自らと照らし合わせて、よしここで一丁やってみるかという気持ちをおもちのうちは働き続けられればいいと思います。
しかし、もう何をやったらいいかわからない、何をしているのかわからない。私のせいではない、国のせいだ、経営者のせいだ、リーダーのせいだ、現場のせいだ、と思い始めたら辞めたほうがよいと私は思います。
すべてが「他者のせい」で、私は恵まれないと思い始めたときが辞めどきではないかと思います。
きっとここが一つの境目だと思います。
(2004年6月18日、いらはら診療所職員研修での講演に加筆・修正しました)
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