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教育紙芝居の世界を考える

●NO.1
「トラゴロウとふしぎなはこ」
「はかせとロボット」
●NO.2
「ふしぎなうりどろぼう」
「ジョンのゆめ」
●NO.3
「バーコーのかいぶつたいじ」
「おににさらわれたあねこ」
●NO.4
「雪の女王」
「王さまのながぐつ」
●NO.5
「じゅんちゃんすとっぷ」
「しろいからす」
●NO.6
「りょうしとうずら」
「ふくろうのそめものや」
●NO.7
「へっぴり女房」
「だいくとおにろく」
●NO.8
「杜子春-とししゅん-」
「てんぐとかっぱとかみなりどん
●NO.9
「森のいえ」前編
「森のいえ」後編

ずっと以前からいわれてきたことだが、紙芝居を演じるうえでの技術的な問題にはふたつの考え方があったと思う。ひとつは、
(1)
あくまでも作品に忠実に演じること。言葉は一言一句変えてはいけない。抑揚はつけてはならず、たんたんと語る。演じ手は黒子に徹する。
もうひとつは(1)とは逆に、
(2)
演じ手の創意を認め、キャラクターに沿った声色を使ったり、場合によってはストーリーも改変する。
わたしのやり方は後者の(2)である。歌が作詞作曲者から離れて歌い手のものになっていくように、紙芝居も創り手の手を離れ、演じ手のものになっていくのが自然だと思う。そうしないと作品自体が陳腐化する。それは総合芸術の宿命だと思われる。歳月の風化に耐えながら、リニューアルされ、現代化されていく過程で作品は常に新たな光を帯びる。問題は紙芝居の場合、それが個人的な営為にとどまり、創り手との交流を欠いて一過性のものになっていることだろう。逆にいうと、同じ作品を異なった演じ手がやるたびに作品世界がちがう色に染まるわけで、それはそれでおもしろい、といえる。また、絵本よりも紙芝居は演じ手の作品理解の深浅が問われるように思う。というのは、紙芝居はあくまで観客の存在が前提だからだ。その点、絵本は多く個人の読書の範囲にとどまる。ただし、読み聞かせなどにひんぱんに取り上げられるようになったら、事情は紙芝居と同じになるだろう。(2009.2.16)
月に1度くらい娘たちの通う小学校で読み聞かせのボランティアをやっている。朝、15分間だけ時間をいただいて、対象年齢に合わせた絵本や児童文学作品を読み聞かせるというもので、地域のお母さんたちの主導である。
この企画が始まったころ、声をかけていただいたが、こういう機会でもないと思い出さなかった昔の紙芝居のおもしろさを、いまの子どもたちとも分かち合いたいな、と考えた。そこで町の図書室や隣町の図書館などで紙芝居を探してくる。若い頃、目白にあった子どもの文化研究所の紙芝居サークルのひとたちと関わったことがあり、紙芝居を演じるおもしろさも少しは知っていた。少しずつやり方も思い出してきて、子どもたちのよろこぶ顔や笑い声に、人間の生きるエネルギーを感じてあらためて紙芝居の持っている力に気付かされた。同時に、この隠れたおはなしの宝庫を未知の方々にも紹介したいな、と考えたのである。
最近、こういった読み聞かせボランティアに取り上げられる本や絵本の著作権の問題が急浮上している。これがどういう決着をみるのか、予断を許さないが、個人的な意見をいわせていただければ、本というものは単なるデータの集積ではないわけで、ほんとうにそれが好きになれば、身近に置かないではすまないものなのだから、読み聞かせによって裾野を広げるのは出版社にとってわるいことではないように思う。逆に、紙芝居は作家も画家も「買い取り」という契約の仕事だった。印税が発生しない。これはこれで問題がある気がするが、いまのところ演じるのをストップされる気遣いはなさそうだ。
さて、このコーナーで取り上げるのは、すべていわゆる「教育紙芝居」と呼ばれたものである。日本の紙芝居文化の中央には、街角で演じられた街頭紙芝居の極彩色の世界がある。わたし自身の遠い記憶のなかから、それが消え去ることは決してないだろう。しかし、その世界をここに紹介する力量はないので、このコーナーはあくまで地域の図書館などにまだ収蔵されている教育紙芝居を紹介することにとどめるものである。(2006.7)

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