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『学校訪問』廃止への道(概観)
学校合同は東葛の『学校訪問』(行政訪問)廃止を最重要課題の一つと位置づけ、強力に取り組んできました。1992年6月4日・第1回出張所交渉以来実に50回にも及ぶ粘り強い交渉と、会場校・訪問校での闘いの軌跡とその成果をご覧ください。
Part1:1992〜1997
東葛計画訪問
松戸・柏であんなことがあっても『各地教委・校長は、出張所の実施要項の主旨を良く理解しよく協力してくれた。100%実施できなかったのはやむを得ない』(島尻指導室長−7.3出張所交渉)

ということは、授業公開 はもとより 計画訪問 は
  やらないこともできる! ということ!!
 鏡のような水面に小さな石ころを投じたその波紋が、どんどん広がっていくときのあのワクワクした子どもの頃の記憶が、今、鮮やかによみがえって来た。闘いの輪が見る見る広がっていくというのは、実に気持ちのいいものである。
 想えば5年前、我が学校合同が結成された直後の1992年6月4日、東葛出張所との第1回の交渉が、その記念すべき小さな石ころとなったのである。もちろん、「出張所長訪問」(=管理課訪問)「計画訪問」といった各種「学校訪問」を中心とした交渉であることはいうまでもない。
 「出張所長訪問」については、当時の仁木管理課長が、
『出張所長訪問をしなければならない理由はない』
と発言し、法的に具体的に定められたものはなく、ただ単に慣例として続けられているだけであることが明らかとなり、止めることも含めて検討するとまで回答した。 <『学校合同』No.7>
「計画訪問」についても、当時の銭谷指導室長が、
 『学校数が多いので一校ずつ訪問できないので、いい方法が見つかるまでは現在の方法でやるしかない』
ということを繰り返すばかりで、慣例として訪問することしか頭にない状態であったが、結局、「計画訪問」という形をとっているのは県内でも東葛だけであり、その様な形で行わなければならないという具体的な法律をあげることは出来なかった。
 そうこうしているうちに、その年の柏の「計画訪問」の会場校の一つであった酒井根小で、ナント、一週間足らずで「出張所長訪問」が行われたのである。「計画訪問」で全クラス授業展開をして、一週間足らずでまた全クラス授業展開をするという理不尽なことが平然と行われたことになる。この事実一つ見ても、二つの大きな「学校訪問」が互いに調整もされずに、現場の子どもや教職員のことなど何もかえりみることなく、ただただ慣例で行われてきた事がはっきりとしたことになる。我々の追及の前に、よほど後ろめたさを感じたのだろう。次年度の1993年度から、「計画訪問」が行われた会場校で「出張所長訪問」がある場合には「帳簿訪問」のみとなったのである。何等本質的な改善ではない小さな一歩であったが、我々の正当性が認められる大きな第一歩となったのである。現在では当然のことのように行われていることだが、これも粘り強い交渉の成果であって、何も言わなければ、現場のことなどおかまいなしに、とんでもないことが何食わぬ顔をして事務的に行われてしまってきたのだと言うことがよく分かった。<『学校合同』No.11.13>

−増尾西小 たった一人の授業公開拒否−
 その後、出張所は何とか法的根拠を見つけようとあわてて勉強して、地教行法48条などを持ち出してきて、いつの間にか当たり前のことだと言わんばかりに居直ろうとしたのである。しかしながら、具体性に乏しく説得力もない。粘り強い交渉が続く中で、1995年度、柏・増尾西小で、前年度までの校長が「計画訪問」を引き受けたことを職員に知らせぬまま転出してしまったことに端を発して、今までは"順番だから仕方がない"と諦めていた「計画訪問」が、交渉を通して"授業はお願い"であってやらないことも可能であることが分かり、指導案不提出・指導主事呼ばず(これは正式に認められた)・授業非公開の闘いを"たった一人の反乱"として貫徹した。(1995.6.27)<『学校合同』No.23.24>
 その後、出張所や地教委の一つであるか柏市教委との度重なる交渉の中で、両者の矛盾が明らかとなってきた。出張所は『要請訪問』と言っているにも拘らず、柏市教委は、『要請していない』という誰の目にも分かる矛盾である。当時の西崎指導室長は、我々の矛盾の指摘に対して逃れることができなくなり、最高4時間の交渉となったこともあった。<『学校合同』 No.25〜29>

−柏・逆井小 授業公開 希望をとる 全体会で熱き追及−
 年度末に入って次年度(1996年度)の柏・逆井小の準備が始まり、出張所が『要請訪問』と言いながら、柏市教委はさも決定事項であるかのようにして同校に伝えてきたことから、職場をあげての闘いが開始されることとなった。職員は総反発しているにも拘らず、わずかな職員会議で校長は一方的に「訪問」を受け入れることを市教委に伝えてしまったのである。学校合同は、逃げ回る市教委に出向いて教育長との会見を勝ち取るなど出来うる全ての行動を行った。こうした闘いを通して、『授業を公開するかどうかの希望を取る』ことを校長に確認することができて、正式に授業を非公開とするクラスが複数可能となるなど、有形無形のものをたくさん勝ち取った。そして当日(1996.6.18)、そうした熱き闘いの延長線上に、全体会でのあの画期的な闘いが現出したのだと思う。出張所・市教委・校長と言う三当事者が顔を揃える唯一の場である全体会で「計画訪問」についてのこれまでの矛盾点について、その"素朴な疑問"をぶつけるのはむしろ当然のことだと言ってもいいだろう。しかしながら、西崎指導室長は何等説明もしようとせず、用意した原稿をただひたすら読むだけで、一体なにを言っているのか分からないまま45分間の全体会が終了すると言う前代未聞の事態を作り出してしまったのである。<『学校合同』 No.25〜29>
 その後、県教委との交渉(1997.3.7)で、「計画訪問」について、
 『会場校は協力してもらっているので断ることができる』(平塚学校教育部指導課研修係長−当時)
という明確な回答を得て、強制的には出来ない「計画訪問」の性格がいよいよ明白になったのである。
<『学校合同』 No.34>

−松戸・T小 平常日課通り授業非公開の貼紙
  柏・Y小 一学年一教科公開−

 そして今年度、こうした熱い闘いの前に、出張所はついに重い腰を上げざるを得なかったのである。いくつかの「改善点」があったが、とりわけ本質的な問題として、『主催者を出張所にする』というこれまでの『計画訪問は現場の要請で行っている』という回答を180度転換するようなことを言い出した。しかしながら、交渉でよくよく内容について説明を求めると、中味は以前と何ら変わらず、『教育長をはじめとして地教委・校長会の同意を得、地教委を通して会場校の了承を得て計画訪問を行う』というのである。要するに、会場校の同意なしには出来ないことを出張所自ら認めているのである。<『学校合同』No.35 >
 しかしながら、これまで蓄積された闘いの流れは、こうしたごまかしの「改善」など押し流してしまうほどの強い流れとなっていたのである
 1997.6.13 松戸のT小では、職場をあげて授業公開に反対して、多くの教室のドアに『授業公開に反対しています。協力してください』と言う貼り紙が張られて、「計画訪問」反対の意思を明確に示したのだ。
 1997.6.18 柏・Y小では、職員の粘り強い闘いの結果、原則一学年一教科の授業公開ということになった。しかも、全体会を校内テレビで行うと言う醜態をさらしたのである。<『学校合同』No.35.36>
 5年前に投じた小さな石ころが、中心から遠ざかるほどその波紋が大きくなるように、5年後の現在確実に大きな闘いの輪となって急速に広がってきたのを実感せざるを得ない。
 
こうした松戸・柏の事態を目の当たりにして、島尻指導室長はその事実を認めた上で
『これまでに実施した各市町教委(地教委)は出張所の実施要項の主旨を良く理解し良く協力してくれた。大変ありがたい』
と、何事も無かったかのように言ってのけた。それを追及すると、
 『その先の問題は、地教委と学校の努力の結果なので出張所がとやかく言う問題ではない。校長も良く努力してくれて、今回100%実施できなかったのはやむを得ない
と続けた。室長の口からは、とうとう現場の子どもや教職員への感謝の言葉は聞かれなかった。出張所は現場もみないし現実もみない。一体誰のための「計画訪問」なのだろうか。子どもたちの教育を豊かにするために「計画訪問」をやっているのではないのだろうか。そうではないことがこれではっきりと分かった。現場がどんなに混乱しようがどんな形であろうと、出張所が現場に入ればそれが「計画訪問」だというのだから。要するに、出張所=県教委の権威を保ちたいだけなのだ。こんなことのために現場は振り回されてただでさえ忙しい学校を益々忙しくさせている。その割りを食うのは肝心の子どもたちである。神戸の事件が中学生の起こしたものだとすると、その動機に「学校」がどれだけの部分が占めているか分らぬが、子どもたちにとって、地域の学校は例えどんな状態であろうとも、一日のうちの活動的な時間を過ごす唯一の公の場であり、一つの"小宇宙"と言ってもいい。有形無形に影響を与えていると考えたほうがむしろ自然であろう。教育委員会はその現実を直視すべきである。
 同時に、室長の回答は、授業公開はもとより「計画訪問」自体止めることもできるということを自ら認めたものであることが明確となった。どんな形であれ「計画訪問」として成立したと言うのだから、やらないことも当然含まれるはずである。
 松戸・柏の闘いの輪をさらに広げるべく、この夏休み、さらなる闘いのエネルギ−を充電しようではないか。(O)
(『学校合同』No.38/1997.7.30)
Part2:1997〜2001
そろそろ潮時!
 東葛「人事評価制度」先取りの                         
現代版視学制度=『学校訪問』廃止に向けて
 東葛の『学校訪問』(行政訪問)は、この4年間で大きくその姿を変えてきた。この変化は、わが学校合同の1992年6月4日・第1回出張所交渉以来実に39回にも及ぶ粘り強い交渉と、会場校・訪問校での闘いがあったればこそなのである。これまで9年間の地道な闘いの成果が一気に開花してきたと言えるだろう。今後の闘いのためにも、ひとまず、この4年間の軌跡を振り返ってみようと思う。
(それ以前の軌跡は『学校合同』No.38 に詳しい)

 「計画訪問(現・指導室訪問)」が1997年度に大きな変化があって以来、たて続けに大きな変化がみられ、1998年度分科会のみの柏方式、さらに1999年度は、とうとう会場校方式の計画訪問を止める松戸市・鎌ヶ谷市などの市も現れるにいたったのである。その間、「出張所長訪問」は1998年度大きな変化がみられることになった。むろん、全面廃止をかかげる我々の要求とは隔たりのあるものではあるのだが…    

 まずは『計画訪問』。柏・逆井小における"全体会でのあの画期的な闘い"(『学校合同』No.28〜30/32) の翌年、1997年度多くの問題点を孕みながらも、参加者が全員から各教科・領域の代表者になったり、各学校参加者のレポ−トの事前提出がなくなるなどこれまでに無い変化を余儀無くさせ、ついに、その重い腰を上げることとなった。まさに「山が動いた」のである。

 これに追い討ちをかけるように、1998.3.7 県教委との交渉があった。この交渉で、県教委は「計画訪問は協力してやってもらっているのだから断れる」と明確に回答したのである。この回答に出張所は右往左往して、島尻指導室長(当時)が県教委に問い合わせると、県教委は、あろうことか出張所と口裏を合わせるようにして「無条件で断れると言ったのではなく、ごく限られた場合である」と言い出す始末。勿論、これが詭弁であることは、この回答をした平塚指導課係長が、その直後の4月に異動してしまったことが何よりも物語っている。
(『学校合同』No.42)

それにしても、この時の義務教育課の回答者が前東葛出張所長・鐵本であったことは、単なる偶然ではないであろう。
 以来、松戸・T小の「職場をあげて授業公開に反対」する闘い、柏・Y小での「原則一学年一教科の授業公開」という闘いを目の当たりにして、1998年度も、形態・日程・内容の多岐にわたってマイナ−チェンジせざるを得なかったのである。「授業公開」「分科会」が「原則として全教科・領域」というように「原則として」が付け加えられたし、「指導主事」も事前に要請する必要がなくなった。「出張所の主催」という部分も一年で引っ込めてしまった。
(『学校合同』No.43)

 そうしたある程度「弾力的な」要項が出される中で、柏市は、「年度当初から検討を重ねて」一学期末になって「授業公開・全体会なしで分科会のみ」の決定をして、やっと各校に通知したのである。これは大きな前進であったが、「地方教育行政のスリム化」「市町村教委の独自性尊重」など、今さら何を言っているのだというような「理由」にならない理由をあげてお茶を濁していたのである。しかし、そのほかの市でも多かれ少なかれ変化が見られたのだ。
(『学校合同』 No.44 /45)

 指導室は、「その結果をふまえて検討」せざるをえず、年末のうちに何時になく手早く一昨年度の実施要項(案)が出されることとなった。この(案)は、各地教委と「協議」を重ねて昨年度の「実施方法」を固めていくというこれまでに無い「異例」の方法を取っていた。しかも、標題をよく見ると、「××年度指導室訪問実施要項(案)」となっていて『計画』の2文字が消えているのである。とうとう「計画訪問」いう名の「行政訪問」を無くさせたのだ。もちろん、内容を見れば出張所主導という本質に変わりのないことは直ぐに分かってしまう。「実施方法」で、いかに「各市町村教育委員会の自主性・主体性を尊重する」といっても、「計画立案」について規制してしまっては元も子もないのだ。
(『学校合同』 No47/49/51)

 それでもその結果、柏市は昨年度と同じ分科会のみという方式であったが、「市教委訪問」をやっている松戸市と鎌ケ谷市が、従来の会場方式の「計画訪問」を止めることになった。松戸市は、年間を通じて各種会合に出張所の指導主事を呼んで県の方針を伝えるようにするといい、鎌ケ谷市は、市教委訪問のなかで出張所の指導主事に応援を依頼するということであった。「計画訪問」よりもきついといわれる「市教委訪問」を残すことを前提にしているとはいえ、ひとまず「計画訪問」がなくなるということは数年前にはとても考えられなかったことであろう。我孫子市でも公開研究会などの場で、出張所の指導主事が県の方針を伝えるようにした。昨年度は、流山市で「全体会」を中止するに至った。
(『学校合同』No.50/56)

 もう、この流れは止まらない!
 『所長訪問』についても、1998年度から従来の形を大きく変えた。これまでの多くの学校での授業拒否の闘いがこうした変更を余儀なくさせたことはいうまでもない。確かに、平常日課の中ということで、事前の指導案もなくなり全体会もなくなるというのだから従来から考えると時間的な軽減が計られているように見えるが、残念ながら多くの問題点を孕んでいるのだ。特に、中止できないのなら真っ先に止めるべきはなんら法的根拠のない「授業公開」なのである。逆に、ここに「所長訪問」の本質が見えてくるのだ。要項大幅変更で授業公開の比重はかなり減ったはずなのに、これまでの交渉の中で元管理課長が「所長訪問の目的の一つは人事管理である」と回答したことは、ゆゆしき問題である。教育行政の目標である教育条件の整備確立ということを大きく逸脱しているからである。その言葉が「人を知る」「人事事務のための情報収集」という言葉に置き換えられたとしても、その本質に変わりはない。「おえら方」の一瞬の印象が「人事管理」に使われるとするならとんでもないことである。「人事評価制度」の導入が取り沙汰されている昨今、この先取りとも考えられる。昨年末の交渉で倉持管理課長の「所長訪問等の行政訪問での人物評価を人事異動の資料としない」という回答を得たが、「人物評価」そのものについては曖昧なままである。この点について今後も追及し、あくまでも撤回を求めたい。
(『学校合同』No.43/55/58)

 以上、これまで4年間の『学校訪問』に対する闘いを振り返ってみた。まだまだドラスティクに変わっていくであろう。我々はまさに今、その過渡期の真っ直中にいることを実感する。こうした一つ一つの闘いの積み重ねが、県内の他組合を揺さぶり、全国の闘う独立組合の主要課題にまで押しあげてきたのだと思う。そして、今国会に上程されている反動的な「教育6法」反対の闘いにも繋がっているのである。   
 わが学校合同は、我々の闘いに対するあらゆる妨害を跳ね除け、この過渡期の変革の主体として、「現代の視学制度」=『学校訪問』を廃止に、そして、反動的な「教育6法」を廃案に追い込むまで、さらなる熱き闘いを貫こうと思う。(O)
(『学校合同』No.60/2001.6.4)
Part3:『学校合同』(No.72/2003.10.14)へ
 
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